昭和49年01月22日 朝の御理解



 御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」
     一、「我情我慾を放れて真の道を知れよ。」

 自分で出来ておると思うておる事は、間違いであります。又は迷いであります。自分で出来ておるその迷いが取れる時に、間違いが間違いと気付かせて頂く時に、成程人間私共の無力さというものが判ります。われ無力であると言う所。障子一重がままならぬ人の身と。障子一重向こうの方で、どういう事が起こっておるかも判らない、一寸先が闇の世である。その一寸先が闇の世の私達であると云う、自覚が出来る所から、縋がらなければ居られないと云うものが、自然とそういう心が起きて来る。
  縋がらなければ居られない、願はなければ居られないと云う。これ位の事は自分で出来るけれども、是から先は出来んとこだけを、神様に御願いすると云う様な考えをしている人が、実は多いのじゃないかと思う。まぁこんな事までは御願い出来ません。だから処々お願いをする。こんな事までは御願い出来んと言うて、御願いせんで済んでおると思うて居る。実を云うたら。
 本当にこの神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸が動かれん。ここ一寸動く場合に願わなければ居られない、縋がらなければ居られないという、人間の無力と言う事が判った時にそういう心の状態が、そこから真剣な信心と言う事が、真剣に信心を頂かなければ、取り組まなければ居られないと言う事になって来る。それでも人間幸せを願わない者はおりませんから、一寸先が闇の世である事が解った時にです。
 その闇の世に持っておらなければならないものが信心であり、信心の光だと言う事になる。そこで初めて真の道が、はっきりして来る訳です。そこで真の道がはっきりして来ると、我情我慾を放れて、真の道を知れよと教えておられます。我情我慾を放れて真の道を知れよと。そこで我情を取る事に、我慾を放れる事に、一生懸命精進する事が、信心の精進だと言う事も云える。
  今毎日三代金光様の、金光様という御本を読ませて頂いておりますが、丁度お国替えになられます半年前に私は、金光様お国替えというお知らせを頂いた。びっくりしましたけれどもよもやそんな事はまだないと、こう思いながらもお知らせを頂いたから、秋永先生だけに話した。実はこういう大変な事を頂いた。それが丁度四月の御大祭を、団参をさせて頂く前でしたから、私共お参りをさせて頂いて、その頂いておりますから、本当に胸がドキドキする位に感じたんです。
 私そこ辺の様子を、一寸失念しましたけれども、金光様のお出ましを拝む為に、一緒に、金光様が何時もお通りになる道に出ました。何時もは提灯が先に出る。そしてお車にその時分は、お召しになってのご奉仕をなさっとられましたから。そしたら本当にびっくりしました事は、今の教主様が見えたんです。もう本当に例えば亡くなっておられるならば、亡くなっておられるで、それが全教に発表されない筈はないから。
 どう言う事だろうかと思うた。それが丁度亡くなられる半年前で、今私がお書物を読ませて頂いておる処が丁度その頃から、お体がどうも不調でおありになると。それで皆が御願いをして、朝のお勤めをお止めになって、それでも十時頃からですか、ご奉仕にお出でられて、何時間ご奉仕になっておられます。
 それから半年後の十月の御大祭。そして四日、七日、十日、十三日と四回の御大祭が有ります。一番最後の十三日の御大祭が、終わられたのとお国替えになられたのが一緒でした。その間の事を読ませて頂いておりますのに、本当に恐れ入ってしまいます事はご奉仕が段々お出来になられなくなって、最後の処は一時間三十分、一番最後の日は二十分と言う様にです。それこそ息の根の切れるまでとはこの事だろうかと思いますね。
 二十分間、ここにお座りになっておられるのが、やっとと云う処までご辛抱なさっておられます。そしてお家に帰られて、お休みになられ、東京の竹内長治先生と云うお医者さんです。お道の教師でもおありになります。その方が診察をなさっておられる時のご様子を書いてございますが、体をお使いにならずに、唯休んでおられるのですから、非常に楽だといった様な御様子であったと言う事です。
 私共が楽な信心をして、おかげだけは大きなおかげを頂きたい。あの人はお参りせんでもおかげを頂いておると、その人を見習らおうごと有ったり、真似しゅうごとあったりするような心が動く様な事で、本当のおかげが頂ける筈はないですね。一足飛びには出来ません。けれども私共の信心の内容というものは、愈々本当なものになっていくという事を目指す事です。真の道に出て真の道を歩くと言う事は、愈々本当な行き方にならせて頂くという事です。本当な事で無い事の多いのに驚きます。
 気付かせて頂いてそれを一つ一つ、本当の事に直していく。そこの処がです我情我慾を放れていくという事だと思います。これも親教会に私がお参りをしておった時分ですけれども、私に沢山の人がついて見えると言った様な時代でした。これも或る春か秋だったかは分かりませんけれども、昔の祭場で私共が秋永先生と二人で参りました時には、皆さんは早うから座っておられた。私共何かで遅くなった。遅くなったと云うのが、お祭りの始まる寸前であった。立錐の予地も無い位に一杯詰まっておりました。
 それで私共は、前の方へ廻って、来賓の方達がお付になる椅子が、がら-んと空いとりましたから、見えたら立つけんで、ここで拝まして貰おうのと云うて、結局一番前の処で拝ませて貰った。結局、最後まで見えませんでしたから、最後まで拝ませて頂いたんですけれども。ですから、金光様のお動きが、手に取るように見える傍なんです。金光様が参向して見えます。
 そして廊下をお通りになって曲がって、丁度一般参拝者の前に出て来られた時分に、こうお屈みになるんです。そして何か一寸拾われて、袂に入れられるんです。それも小さい、藁しべの様な物がお通り道にあった。装束つけて参向してお出でられる時なんですよ。っとこうそれを拾って袂に入れて、お進みになりました。一寸秋永先生金光様の信心は、ここばいと云うて、お話した事がございました。
 自分の目の前に、少しでも散らかったものが有ったり、汚れたものが有ったら、前には進まれないという行き方なのです。そぅおなりになっておられる訳です。行き方が歪んでおろうが間違っておろうが、本当な事であろうが、本当な事で無かろうが兎に角、まぁ人間じゃけんこのくらいな事は、当たり前と云う様なドライな考え方では信心は進みません。一足飛びに出来る筈は有りません。けれどもです私共が先ずは、判らせて頂かなければならない事は、障子一重がままならぬ人の身である。
 本当に我無力で有ると言う事が判る。それを判らせて貰う。本当にそうだなと言う事が判る。歩いて来た車で来たまぁ色々、お参りでも有りましょうけれども。自分が起きてそして、自分で顔を洗うて、自分で着物を着てと云うけれども、実際それは目覚ましのおかげを頂いたのであり、着物を着せて頂いたのであり、歩かせて頂いたのであり車でここまで来らせて頂いたのであると言う事実をね、事実として判らせて頂く事が、私は神様のおかげでと言う事になるのです。
 我情我慾とここにある、その我という思いが無くなった姿なんです。私が来たと云う時には、我で来た訳です。だからお参りをさせて頂いたという時に、我の取れたお参りと言う事になるのです。それは言葉だけでは無くて心からそうでなからなければならん。今日、私は色々とお知らせを頂いて、私の信心に一つの一大転機をもたらす事だろうと思われるような、大変な事を色々と頂いた。その中に紋付袴を着けた人が、日本舞踊ですね舞を舞ってるんです男の方が。
 段々舞って素晴らしい舞いだなぁと思うて、見ておりましたら段々舞っておる内に、袴の処が少し乱れてきた。着付けて居られるのが。何と下に普通で云うなら角帯なら角帯を致しますよね。そして袴を履くんです。処が帯がしてない。唯直接紋付を着て袴を履いておるという訳です。だから一寸見には判りません。処がその人が動きだした処が、下に帯がしてないもんですから、段々見苦しゅうなったという様なお知らせを頂いた。云うならば、信心の帯をせよと仰るが。
 信心の帯がしっかり出来ておって、袴を履いてそしてそこにキチッとした舞いが舞えると言う事が、本当でしょう。形の真似だけではいけないと言う事なんです。金光様の御日常と云うものを、ずうと読ませて頂いて、どうとお話する程しの事も無いけれども、唯感動するのは、頂いておる私だけであって、本当に何でも無い水の味とでも申しましょうか。水の生態とでも申しましょうか。高い所から低い所へ、水が淡々として流れて居るといった様な御日常、御信心生活である。
 それでいてどうして私の心中に、こんなに入って来るようにその有り難さとか、素晴らしさと云うか、又はそれを私共も精進させて貰うて、その真似方でも出来るようなおかげを頂きたいと言う様な願いが、非常に強くなって来る。けれども実力が出来て来ると申しますか、内容が出来て来ると申しますか。内容が出来ただけが、形に表れて来るというのでなからなければ、本当な事じゃないと思います。ですから内容が出来て来ると言う事ですから、とてもとても眠り半分の信心。
 割り切った考え方の信心で、そういうおかげの頂ける筈が有りません。我を取る事に一生懸命精進させて貰う。それは私共が無力であると言う事が判れば判る程、縋がらなければ居られない。その縋がる心がです少しずつ我が取れた、我情が取れた、我慾が取れた在り方で、お縋がりする様になる。障子一重がままならない人の身であると言う事が判る。本当は、一寸先が闇の世である中にです。
 そこに微かにでは有るけれども、我情我慾が取れて行くに従って、はっきり信心の光真の道が判って来る。その真の道を歩かせて頂いておる処にです。障害なものが有ったり、または汚れたものが有ったり、塵一つでも落ちておったら、それを拭ったり清めたり又はそれを、拾うて行ったり片付けて行ったりしなければ、前に進まれないというの、真の道です。ですから私が、金光様の真似をすると云うならです。それは一寸くらい出来ん事は有りますまい。
 この御本に書いてございますが、東飯塚教会の大久保隆先生。私も大変色々良くして頂いた先生ですがある時に、金光様に御願いをなさっておられる。取次者としておかげを頂いたのでございますから、金光様今日からあなたの真似だけでもさせて頂きたいと思いますという御願いをなさった。そしたら金光様が大きな声をだして、カラカラとお笑いになってから、御出来になりますかと仰ったです。もぅ少し実力を作りなさらなければ、真似だけでも出来はしませんと言う事です。
 後ろに居った者がびっくりする位いに、大きなお声でお笑いになったと言う事が書いてあります。私共でもやっぱり思います、真似方でもとこう思う。処が事実それが真似だけではいけんのである。私の信心の進め方行き方の中に、ずっと色んな時代がございました。だから少しでも自分の我を取り、情を取り我を取り、慾を外して行く稽古を一生懸命させて頂いておれば、真の道が少しは判ってきた。そして真の道を歩かせて頂いて行く内にです。いわば実力が出来て来る。
 実力が出来て来るから例えて申しますなら、金光様の真似事が出来ると云う時には、もぅきつくもなからなければ辛い事もない。ただ嬉しうて有難うてと云う事だけになるのです。それが、やはり信心は一段一段上がっていくのだと、こう仰る。信心も手習いと同じ事一段一段進んで行くのです。私が今三時十五分に起きます。そして三時半にここに出てきます。それをさせて頂く様になったのは、つい何年前です。それまではとても夢にも出来なかった夢にも思はなかった。それこそ五時の御祈念が、やっとかっとであった。所がこちらにそれだけの実力が出来てきた時に、それをなさせて頂く時に真似でない証拠にです、私のものになっている証拠に、それが私の一日のうちで、一番有り難い時間になったと言う事実が、私は有り難いおかげだと思うです。
 皆さんがこうやって寒修行をなさっておられる。だからこの寒修行のようなお参りを、一年間続ける。成程続ける事に有難い思いで、おかげを頂いとる方は愈々工夫をして、より高度な信心に進まなければならんです。けれどもこの寒修行中の間がやっとかっとじゃったと云う人は、必ずそれを続ける必要はないのです。それが有り難くなるという処まで。だからそれが放任しておって良いかと言う事ではないです。放任したらがたがたと又、信心は後へ戻ってしまいます。
 だからそれが本当に、有り難く出来るようなおかげを願わなければいけんのです。どうせ自分で出来る事じゃないのじゃから。神様のおかげを頂かにゃ、出来る事じゃないのだから。神様がおかげ下さって起こして下さり、歩かせて下さりお参りをさせて下さる。時期が来たなら、参ろうと言った様な事じゃ、おかげの頂かれる筈はないです。ですから私共に例えて申したら、今三代金光様の様な、人間の世にこの様な行き方をなさった方が、後にも先にも、恐らくは出られまいと思います。
 けどもそれが真の道を行く人の本当の姿だと。それが云うならば完璧な人のお姿と云うものを、八十三歳の人生の中で、それを完璧なまでに、仕上げてお出でられた、金光様の歩かれた跡を歩かせて頂くのが、どこまで行けるか判らんけれども、歩かせて頂くのが、私は、金光様の御信心の真の姿だと思うです。ですから是でよかよかてん何てんというものが、有って良かろう筈が有りません。と云うてそうしなければならない、そう迄なければならないと云うのではいけません。
 それを真似たのは信心の帯が、しっかり出来ておらずに、紋付の上から袴を履いて踊りよった分では活動しよった分では、すぐ乱れてしまいます。だから信心の帯がしっかり、キチッと出来てから、そして舞を舞わせて頂くという処にです。見る者も又舞っておる者も、素晴らしい気分を、味合う事が出来るでありましょう様にです。私共は限りなく前進前進以外にはないのです。
 とても三時に起きらにゃならんてんなんてんて思うだけでも、もし私が二十年前であったら、目の前が真っ黒うなるごと有ったろうと思ったです。そげんせにゃ信心にならんと云われたら。そりゃ親先生は昼寝ばしよんなさるけんで、三時にでん起きる事が出来なさるじゃろうと、皆んなが思うて居るだろうと思うけれどもです。実を云うたら私は昼寝はしても、夜寝をしよりませんもん。だから五時間なら五時間と云う時間だけしか眠りよりません。ですから私に実力が出来た時には。
 夜と昼と替えただけでキチッと出来るものが、段々出来てきよるです私の場合は。さぁ五時間しか休まんごとせろと、神様から云われた時にです。とてもそげな事は出来ませんと言う事やら私はそれが、確実に出来て行きよるから。私は五時間寝れば十分だというのが、確信が出来てきよるから。だから私に神様が夜と昼を替えれと仰ったら、その日から出来るのです楽に。問題は実力を作って行くという。私が三時半から御用させて頂く事が、こういう有り難い私の一日の中で、一番有り難いと云うならばです。
 三時半から四時の御祈念に出る三十分間の間が、私にとって一番有り難い時だと自分で思える位に、あぁしるしかねと云う様な事が本当にサラサラない。是は自分のものになっている証拠だと私は思うんです。私は今までこんな話をした事がなかったが、しきりにそう言う事を自分で、皆さんに聞いて貰うですね。私の昼寝の事やら何やらを。これは何かが、近付いてきよる様な感じがします。神様が昼と夜を替えれと仰る時間が来るんじゃないかと言う様な気が致します。
 けどもその時には本当に受けて立たれる。然もそれが有り難く頂ける状態が近付いてきよるんだと思うんです。これは私が金光様の真似をする。その真似事だけれども、内容が出来ての真似である。一段一段進んで行っての事である。皆さん本当に先ずは信心させて貰うならです、『障子一重がままならぬ人の身』と、教祖は表現しておられます。それは、私共の知恵とか力で出来ると言う事は、それこそ是から先でも爪の先だけの事でも、自分で出来るという事はありません。神様に許されて神様にさせて頂く。お許しを頂かなければ、出来る事ではありません。自分で歩きよりますと云うても中風になったら、もう歩かれんじゃないですか。中風の人に自分で歩ききるなら、走ってみらんのち云うたっちゃ、走りや出来ませんでしょもん。許されて歩かれておる。
 だから有り難いのである。その有り難いが、本当なものになって来る事が信心なんです。そこでそういう障子一重がままならぬ人の身であると言う事を判らせて頂いて、それを愈々実感として、感じられるおかげを頂く為に、我を取れと云うのです。我を取らずに致しましてもですね、それがどんなに立派な事の様であっても、我で致しましたものは、本当な事になってこないです。
  昨日も一寸話しました様に、末永先生がもそれこそ、何日も何日もかかって山から沢山の苔を取ってきて、それを一生懸命植えた。俺が庭ば一丁立派にしよう。そして後から見たら、摘んじゃ出来ん処でん何でん摘んどる。自分が立派にしよるつもりで。それで貴方そこを摘みよると、返っていかんですがち云うたっちゃ、我でしよるとじゃけん、いいえちゅう事てやってしもうた。やってしまってから後の祀りでどんこんされん。さぁ植えてしもうた苔でもです。
 結局我で植えておるから、却ってそれは悪しかれと思うてした事では決してない。もう良かれがしと思うてした事だった。よかれがしと思うて、云うたり、したりしておる事の中に我がある。だから是しこ云うて聞かせても判らんと言った様な心になるのだ。我で云うて居る。それは確かに良かれかし。親先生が喜ばれるに違いないと思うからする事だけでもです。それが云うならば我情我慾で、それをした分では、我でした分では、結果において、それは折角、骨折り損のくたびれ儲けじゃったのじゃなくて。
 却って困った結果にすらなって来る。我を以ってするからです。そこで私共が我情我慾を放れると言う事。我で云うておるのではないか、我を持ってしておるのじゃないか。私が、と云う様な気持ちでしておる様な事はないかという処にです。我を取る稽古を一生懸命させて貰う。そこん所を外すのにただ人間だから、この位の事は当たり前と云う様な考え方で、信心をした分では、出来る筈はありません。
 それこそ、初めの間は、辛うて辛うて、よう泣きましたがと、三代金光様が、十三のお年からお座りになった時に、そう述懐しておられます。初めの間は、辛うて辛うてよう泣いた。座っておれば楽と云われるから、座っておったけれども、楽じゃなかった、よう泣きました。けれども、辛抱しいしいに、辛抱させて頂いておりましたら、欲しいものも無くなり、思う事も無くなってと仰っておられます。
 そこん処の精進と云うものがです、思う事が無くなるという事は、我情が無くなってしまわれたと云う事です。ああしたい、こうしたいと云う思いが無くなられた。そうして辛抱しておられる内に、あれが食べたいの、こうしたいのと云う様なです。あれが欲しい惜しいといった様なものが、段々影を細めて無くなってしもうたら、後は有難うて有難うてと云うものになっておられる。我情我慾を取る精進という事はそういう事。然もそれが泣く泣く辛うてと云う処を辛抱する事が、信心辛抱と云われるのである。
 その辛抱し抜かせて頂いて、段々有難う成らせて頂いてです。嬉しゅう楽しゅう信心が出来るという世界。そういう信心を身につけて行くと云う事がです。私共がこの世に出来てきた生き甲斐にならなければなりません信心とは。ただこう言う事を成したい。こう言う事をやってみたい。そこに生き甲斐を感ずるという人が有りますけれども、そういう者は、段々晩年に近付くに従って、それは自分が億万長者なら、億万長者になる事を生き甲斐としておった人が、億万長者になった時にです。
 果たして何が残っておったかと言う事になるのです。真の道を判らせて貰うて、真の道を歩かせて頂ける私共。然もその真の道にはです、それこそ、藁しべ一つでも、そこに有ったら、拾うて通らなければ居られないのが、真の道なのである。私は思うのですけどもね、これは私は昔からそう思うて居りましたけれど、お取次ぎの御用を、こうやってさせて頂いて、段々楽なそれは、金光様の様に、段々お体がお不自由になられて、一時間が三十分になり、三十分が二十分になると云う様に。
 是は有り難い事ですけれども。歳取ったら幾つまでここで御用させて貰うたら、跡は若先生に任せちから、隠居しようと言った様な思いは、本当にサラサラありません。それこそこの命の続く限り五体の動く限りは、愈々本当な御用をさせて頂きたいという願いで何時も一杯です。ですから神様から一寸ヒントを頂いて、この位の事はお前実力が出来たぞと云われたら、その中にサッと入って行く事が出来ます。それが真の道を行く人の姿勢であらなければならない。
 大変難しい事を今日は聞いて頂きました。とてもそげな事は出来んと思いなさるかも知れん。けれども決してそれを真似ろと云うのではありません。今日切りで朝参りを止めるなら止めてもいいのです。五日間出来た。そして次の時には六日間出来た。七日間出来たと言う様にただ、元に戻ってはならないと言う事です。場合には元に戻る様な事もありましょうけれども。それは一つの波状型のようなものです信心を進めた。又少し落ちたけど次には又この位伸びた。
 又落ちたけど次には、この位伸びたと言う様にです。伸びていくと言う事。それが真の道をいく人の姿勢であり、行き方なんです。幼稚園は幼稚園なりで結構です。けれども、信心というものは、限り無く上達していかなければならないという事。信心も手習いも同じ事。一段一段と仰せられるのですから。それを身に付けて行こうという、意欲だけは、燃えておかなければいけません。これば貰うたけんもう大丈夫。
 もう家は商売が繁盛しよるけん。月次祭だけお礼参拝すりゃ、それでよいという風な考え方からです。そう言う所に、陥り易いものがあるんです信心の道すがらには。それで結構おかげだけは受けると云う行き方も有るです。けれどもそれでは真の道を行く人の行き方ではないです。金光様のこのご本を読ませて頂いて、そういう思いが愈々私の心の中に強うなって来るものを感じ、そして有り難い事だと思う。私共が我情我慾を放れて、真の道が判って、真の道を歩かせて頂く事になった時にです。
 それは素晴らしい、真のおかげが約束されるのであります。真のおかげというのがです、これは人間至幸のもの、幸福とでも申しましょうか。最高の幸福とでも申しましょうか。夕べ、休ませて頂いておる時に、御神願頂いたんですけれども。大黒様が、大きな袋を担いで、打ち出の小槌を持って居られるのですね。その袋を置いて、打ち出の小槌だけを、こう持たれると言う様な処を頂いたんです。これは荷物を降ろすと云う事は、やっぱり荷物を持っておると言う事はきつい事です。
 だからそれがどういう意味か知らんけれども、打ち出の小槌一本でです。一切の幸せを打出させれるおかげに進んで行けよと。この辺で私の信心の切り替え時というものですね。次のより良い本当なものへ進まして下さる。何かそんなものを感じ今朝から頂く、あれやら是やらを思い綴らせて頂きますとですね。あぁ有り難い事になって来るぞ。私の信心も少しは神様から、又認めて頂ける道が開けて来る様な気が致します。
 真の道はピンからキリ迄ありますから、そういう本当な事から本当な事へ、なっていく事が楽しみの信心を、私は真の信心だと思うです。からと云うて一足飛びになれというのじゃ決してありません。真の事から真の事へとなって行く事が、有り難いのである。その根本になるものはです。自分で出来ると言う事はない事をまず知る事。障子一重がままならぬ人の身であると言う事を、判らせて頂いてそれを実感として判らせて頂く事の為にです。真の道を判らせて頂く事の為に。
 我情我慾を外していく処の、おかげを願わなければなりません。そういうおかげを頂く、一つの手段とでも申しますか。天地日月の心になること肝要とか。成り行きを大事にしていくといった様な在り方に、本気で取り組まして頂いておると、一歩ずつでも神様が進んで行く親心が判って来る処に、その親の思いに付いていく。這えば立て立てば歩めの親心であるならばです。それについて這うなら立ち習う、立ったら歩き習わせて貰う事に、喜びの感じれる信心を、お互い身に付けたいものであります。
   どうぞ。